「残高16ドルなファイル係」

 2003年の5月11日は、まだ「吉田治美のちぐまや本舗」で、私は中継を担当していました。
その日の中継先は岩国のTYS住宅展示場でした。
中継先に遊びに来てくださった、
このページを作って下さったゆきさきの父さん(管理人さん)ご家族に声をかけてもらってスタートしたのが
「おっきーおっきー」です。
この中継の日の夜、治美さんにお誘いいただいて徳山市内で飲んでいたとき、
治美さんの言葉で泣いてしまったのを覚えています。
だからたぶん私の最初の「にっきー」には目が腫れていることが書いてあったと思います。

少しずつテレビの仕事に挑戦し始めていたこの頃、
プライベートは実はぐちゃぐちゃでした。
仕事があったからこそあのしんどい時期をなんとか乗り越えられたのかなと今は思います。
思い通りにいかない恋愛をしました。
「あんたと付き合う可能性はない。」
とはっきり告げられていたから恋愛じゃなくて片思いですけど。

どう動けばいいのかまったくわからず、仕事中の自分の状態と、
帰ってからの自分の状態の差が激しく違っていて、そんな毎日を自覚することがいやでした。
だから、テレビに映っているときの自分を見ると、うそっぽかったです。

でも、プライベートはどうなっていても、
仕事をしている時の私を応援してくれる人がいることを自覚できたのもこのページのおかげです。

実はこの仕事をするようになってからすぐの夏、エフエム愛媛のDJに会いにいったことがあります。
エフエム愛媛が一番クリアに受信できる部屋で長く過ごしてきたの
で、私にとってエフエム愛媛を訪ねることは割と自然なことだったように思います。
(その頃はオープンスタジオがあったからね。)
山口では誰に質問していいのかわからなかった頃は、
電話をしてこのDJに聞いていました。
そして、この5年間を過ごすに十分な一言をもらいました。
その頃は自分が5年もこの仕事をすることになるとは想像していませんでしたが、
共感できる内容だったので、
いつの間にかその言葉が自分の行動の判断基準みたいになっていきました。
ちなみにそのDJから、
もし愛媛に住んでいるならパシリから始めてもらうとこなんやけど山口遠いからまぁええわ、
と言われました。
危ない危ない。ジュースとか買いに行かされるとこでした。
今もその方はバリバリ働いておられます。

恋愛の話に戻るのですが、
もがいてがんばっている私にある人が
「そんなにあきらめられんのんなら長期戦と思ってみれば?」
という言葉をかけてくれました。それもそうだなーと思えた時が私のリセットだったかなと思います。
仕事は長い目で見ることができていたのに、
なぜか恋愛は短時間で結果を出すことに必死になっている自分に気がつきました。

それからとても楽になって、そのすぐあと、好きだった人と付き合うことになったんです。
俗に言う、「男は追いかけられると引く、逃げられると追う」ってこれ!?と、
だいぶ遅ればせながら実感したもんです。ほほほ。
いつだったか、このホームページで、
やきもちをやく私に「だんなさんだっておっきーの仕事柄、心配することが多いんじゃないか。」
というメッセージを頂いたことがありますが、
視聴者の皆さんに対する気持ちの部分が主人とは一緒なんです。
趣味も好みもほぼ合わない人をパートナーにしてしまいましたが、
そこが一緒だと感じたから「この人大丈夫」と思えたんだと思います。
婚約したときうれしくてここに書こうかと思ったけど、
なんかあったら(破棄とか・・・)かっこわるいので、やめときました。
結婚を祝ってくださって本当にうれしかったです。

そして同じ頃、ちぐまや本舗では治美さんの体調がよくなくなっていて、
最後にお会いしたのは本番前の控え室でした。
「渡そう渡そうと思っちょったんじゃけど・・・」と、
結婚の御祝いを下さいました。
私はそのお祝いのお返しを直接お渡しすることができなくなるなんて思いもせず、
別の控え室で本番を待ちました。
11月に、ちぐまや本舗の出演者が5人から4人になったときに、
みんなでがんばっていかなくちゃ、と思えたのは、
視聴者の皆さんからの励ましの声によるところが大きいと思います。

いろんな気持ちを味わった2年間を、山あり谷ありでもなんとか過ごせてきたのは、
いろんな人に助けられたおかげです。この気持ちはこれからも忘れずに、
山口に暮らす人の一人として、やっていこうと思います。このホームページができてから2年間の応援、
ありがとうございました。

沖永優子