「残高16ドルなファイル係」

第九について

過日10月27日、阿知須町「きらら浜」にある「きららドーム」で
「きらら博メモリアルイベント」として「2000人の第九演奏会」が行われた。
「へなちょこほるん吹き」を自負するワタシはオーケストラのメンバーとして参加。
まぁ、なんですわ。ワタシ自身はホンマに「へなちょこ」でした。
(詳しくは11月22日(金)10:25〜TYSで放送。4楽章のみ)

さて「第九」と言えば、日本では年末に盛んに演奏される曲目。
こんな現象は欧米ではないことであり、恐らく欧米人には滑稽に見えるであろう。
ではなぜ、日本ではこのような事がことが慣例化されたのか?
「第九」のことを初めからひも解いてみることにする。


〜「第九」ができた背景・経過〜
ベートーヴェン(1770〜1827)が
ロンドン・フィルハーモニー協会から新しい交響曲の作曲の依頼を受け
「第九」の構想を練り始めたのは1822年。
大成功を収めた「交響曲第7番」と「交響曲第8番」を手がけてから
すでに10年たっていた。(この7、8番は一般的ではないがいい曲。)
7、8番を発表して直後に「ニ短調の交響曲を作る」と明言していた。
が、この発言自体は「合唱付きの第九」の事ではなかった。

依頼を受けた時には彼は2つの曲を計画し、1つは明言していた「ニ短調」の交響曲であり
もう1つは「ドイツ交響曲」と呼ばれるもので、後者にシラーの詩を入れようとしていたのだ。
ベートーヴェンが長く心に残っていた
シラーの詩「歓喜に寄せる」に旋律を付けようとしたのは
実は30年以上前(1793年)から考えていた事で
実際に楽譜帳にこの歌詞に旋律をつける下書きを試みているが完成しなかったのである。
が、1822年にはこの歌詞につけた現形の旋律が草案として出来あがってしまっていた。
この草案自体は、どの曲に入れるか、独立した曲にするか明らかではなかった。
楽譜帳には、この旋律のいろいろな変形が残っている。
本格的に作曲され始めたのは1823年。
1823年7月には「第九」の終曲として
弦楽四重奏op.132(イ短調)の終曲を用いようとしたといわれる。
しかし、結果的に1824年2月に完成したものは
別の交響曲に付ける予定であった「声楽曲」を最終楽章に取り入れた
今のような「合唱付き」になっていたのである。
…つまり、ふたつの案をひとつにまとめてしまった訳ですな…

初演 1824年5月7日ウィーンのケルントナートール劇場
    ベートーヴェンが総監督として指揮。
    (実際はミハエル・ウムラウフが指揮、イグナーツ・シュッバンチが補助指揮)

演奏は大成功で、聴衆は熱狂的な拍手を送ったが
すでに耳が聴こえなくなっていたベートーベンには、そんな反響がわからなかった。
アルト独唱のカロリーネ・ウンガーに服のそでを引かれ、聴衆のほうに振り向かされてから
初めて客席の喝采を知った。
この大成功のために、初演からすぐの5月23日ウィーンの大舞踏会場でも演奏された。
しかし、ベートーヴェン本人は初演直後
「この最終楽章を純器楽の物と取り替えて、この合唱の部分は次の交響曲に回そう」
と言っていたそうだ。
肝心のロンドンでの初演は
1825年3月21日にロンドン・フィルハーモニー協会が演奏した。
しかし、ロンドンでは
「独創性と精神の活力があるにもかかわらず、あるべき2倍の長大さを持っている」
と批評され、表面的な喝采とは別に理解されない部分があった。
この作品を理解されるには
ワーグナーなどの後世に現れたベートーヴェン崇拝者の尽力があるのだが
未だにこの作品に対して批評・酷評する人間は、まま居るようである。


〜第九の「位置付け」〜
正式には「交響曲第9番ニ短調 作品125」
表題をつけるのが日本人は好きですからねぇ。
初めからついてる楽曲もあるけど…

まぁ、なんやかんや言われるこの楽曲。
第1〜3楽章に関しては誰もが「名曲」と認めているのは事実である。
まず、この楽曲は「交響曲」に「合唱」(声楽)が初めて付いた事が注目される。
後にマーラー、ショスタコービチなどの作曲家が「合唱付き交響曲」を何曲も書いているが
この事がなければ、もしかしたらこのような形態は生まれていないかもしれない。

そしてオーケストラの編成にも革新をもたらしたのである。
ピッコロ、コントラ・ファゴット、トロンボーンが編成に加わっている。
これは交響曲第5番(「運命」)ですでに採用されていたが
(トロンボーンに関しては交響曲第6番「田園」でも採用されている)
やはり当時としては珍しい事であった。
また、シンバル、トライアングル、大太鼓は
ハイドンの交響曲第100番ト長調「軍隊」で採用されていただけで
ほかに前例がなかった。

一番、「新機軸」とされているのがホルンを4管編成にした事である。
それまでにはモーツァルトが交響曲第25番で採用されていたし
ベートーヴェン自身の楽曲、歌劇「フィデリオ」や歌劇「エグモント」などでも採用
され
交響曲では第3番「英雄」で3管編成を採用していたが
この楽曲による4管編成によって
木管・金管それぞれに和音の厚さと音量の増大を生み、絶大なる効果をもたらした。
以後、シューマンやブラームスなどのロマン派を代表する作曲家は
「第九」の編成(打楽器は除く)を基調とした作曲をしていくことになる。
交響曲第7、8番の時期から始まる「ロマン派」への助走が
この交響曲第9番で一気に「ロマン派」へと加速する
大きなターニングポイントであると言ってもいいのではなかろうか?
(たしかにこの事だけが「ロマン派」に移行していくとは言いがたいが…)


〜日本での第九演奏〜
さて、本題。(前振りが長過ぎた!)
日本初演は、初演から100年後の1923年(大正13年)11月29日と30日に
東京音楽学校で行われたといわれている。

そして日本で「第九」の演奏を広めたのは
NHK交響楽団の前身、新交響楽団であり
1927年から年2、3回のペースで取り上げていた。
しかし、当時は演奏の時期が決まっていたわけではなく
同交響楽団常任指揮者のローゼンストックが1937年に
年末の演奏会の曲目に選んだのが「12月の第九」の始まりだ。

演奏が一時間を超えるスケールの大きさ
印象的なリズムとハーモニー
終盤に近づくにつれて盛り上がる構成。。。
人々は一年の終わりにぴったりの作品だと実感したに違いない。
戦前にスタートした暮れの演奏会は戦後になって、しだいに定着していった。

一方、交響楽団の側にも年末に演奏をするメリットがあった。
食糧不足やインフレの終戦直後、生活が厳しかった楽員らの越年資金の確保だ。
「第九」なら、合唱団員が多く出演する。
曲として人気があるだけでなく、その家族や友人がチケットを買ってくれ
一定の収入が見込めたのだ。


つまり、日本の第九演奏会とは「背に腹を代えられぬ事情」が発端となっているのだ。
そうでもなければ、この難易度の高い楽曲を毎年繰り返し演奏する事なんてなかっただろう。
ワタシの「師匠」曰く…
「もしかしたら第九に関してはヨーロッパのオケよりも日本のオケのほうが上手いかもしれない」
わかるような気がする…
これだけ同じ曲を毎年やるような事ってヨーロッパの国では皆無なのだから。

参考サイト
 読売新聞大阪本社「ものしりエース」
 http://osaka.yomiuri.co.jp/oldtopics/monosiri/ms1212.htm
 山岸勝榮英語辞書・教育研究室「外国人の疑問を通して学ぶ日本の言語文化」
 http://jiten.cside3.jp/seminar/seminar_xx.htm
参考文献
 ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調(音楽の友社)より 楽曲紹介(堀内敬三氏解説)