「残高16ドルなファイル係」
特別編
ギターのジローpresents”私的推理小説論”
あまり人にひけらかす知識がないので、何を書いたものかと悩んでいたのですが、とりあえず最初は少年期からずっとハマっていた推理小説というものについて触れていこうかと思います。 これがおっきーの何かの参考になるとは考えにくくはありますが・・・。 そもそも推理小説は「ドラキュラ」や「ジキル博士とハイド氏」「フランケンシュタイン」「タイムマシーン」といった幻想的で夢想的な小説の流れから、エドガー・アラン・ポーが創作した「モルグ街の殺人」がその始まりであったといわれる。 この小説そのものは、現在において「推理小説」と冠して出版したなら「そんな結末はナシだろう」と反論を買いそうな代物であるが、現在書店の新刊棚においても確固たる地位を築くに至った推理小説は、この作品を持って始まったとするのが大方の見方であるらしい。 一応、そこには推理小説たる最低の条件である「魅惑的な謎の設定」「論理的な謎の解明」「意外な犯人像」「明快なる解答を示す探偵」といった要素があり、その後生まれたウィリアム・ウイルキー・コリンズの「月長石」によって推理小説はほぼ現行の形を示すに至った。 これを現在、確固たる大衆の読み物として認知させるに至ったのが、余りにも有名すぎるアーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズである。 このシリーズこそまさに「推理」を突き詰めた読み物で、主として短編なので機会があれば皆様に読んでもらいたいと個人的には思う。魅力的な謎と余りにもこじつけ気味の推理は読む物をスカッとさせる。世界的にも大ブームとなったこの小説は、これをこよなく愛する人々を指し示す「シャ−ロキアン」なる言葉をも生むにいたる。 さすがは聖書に次ぐベストセラーとなった世界的な読み物なのである。 そしてホームズ以降、これを模倣し発展させていこうとする作家達によって推理文壇はにわかに賑やかになっていく。 「ブラウン神父」のG・K・チェスタトン。 その後、これも有名な灰色の頭脳を持つ「エルキュール・ポアロ」のアガサ・クリスティ。「ファイロ・ヴァンス」のヴァン・ダイン。「フェル博士」や「H.M卿」のディクスン・カー。「エラリィ・クィーン」や「ドルリー・レーン」のエラリィ・クィーンといった推理小説黄金期のビッグネームがこの頃登場する。 この中でも私が好きなのは、「ファイロ・ヴァンス」のヴァン・ダインであろうか。 特に「グリーン家の殺人」、「僧正殺人事件」は秀逸の極みで、これは一読の価値がある。 カーも好きである。 カーという作家は「密室殺人」にこだわり続けた人で、僕が敬愛する横溝正史が彼の作風に啓発されたということもあって、全編に漂う怪奇趣味は僕の心を大いにくすぐる。 密室講義を語った「三つの棺桶」、乱歩が絶賛した「白い僧院の殺人」、他に「赤後家の殺人」「帽子収集狂殺人事件」など傑作が多い。 カーには今日でもファンが多く、彼を崇拝するファン達を車キチならぬ「カーキチ」と呼ぶらしい。 ところで密室といえば、現在では「オペラ座の怪人」が余りにも著名な「黄色い部屋の謎」のガストン・ルルーも外せないところである。 ルルーはカーより少し時代を遡るため、この小説は密室物としては、奇を衒うことがない正統派の作品であるが、意外な(現在ではタブーとも言える)犯人像も含め、展開が巧妙で飽きさせない。 クリスティやクィーン(といってもこの二人の作風は大いに違うが)は、僕の趣味と完全には合致していない。 しかし、クリスティは「そして誰もいなくなった」「アクロイド殺し」「オリエント急行殺人事件」などの歴史的名作を生み、クィーンは現在日本の推理文壇を席巻しているフーダニットのカリスマともいえる存在で、「国名」シリーズや「悲劇」四部作など、その「論理的解決」に重点を置いた作風には舌を巻く思いがする。 「赤毛のレドメイン家」のイーデン・フィルポッツなども、この頃の小説の中では僕の心を惹いた作品である。 こうして名声を得るに至った推理小説は、やがてその当然の流れとして、幻想的な世界からより現実的な世界へとカタチを変えていくようになる。 リアリズム派の台頭である。 「フレンチ警部」のクロフツ。「メグレ警視」のシムノン。 彼らは天才的な探偵が安楽椅子に腰掛けたままその天才的な頭脳によって事件を解明するのを善しとせず、努力家で凡人型の刑事が靴底をすり減らして真相を追求していく手法を取ることで、より実際的な世界を描いていった。 この作風が時代の流れとともにアメリカへと流出していき、やがてレイモンド・チャンドラーやロス・マクドナルドといったハード・ボイルドの世界を作り上げていったとされているが、この辺はもう既に僕の領域ではない。 そして惜しむらくは、このリアリズムの潮流に完全に飲み込まれ、海外ではもうカーやクィーン達が描いてきた幻想的な古き良き時代の推理小説は、もう復活する兆しすらないのである。 次回は「私的推理小説論 〜日本編〜」 |